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もう一日が過ぎてしまった
2007年5月24日 日常 えーと、実は昨日誕生日でした。
誰にも言わなかったけど。
相変わらず明日無き高校生活ですが(大げさ)、それなりに楽しくやっています。
えーと、昨日試験中に思い浮かんだことをまとめておこうと思う。
一応、誕生日記念に。
現実には絶滅する生物がいる。
そしてそれを問題とする人々がいる。
彼らの言い分はおよそ「伝統的な自然を人間が壊したのだから責任をとれ」というものが多いようだが、私にはそれが理解できない。
今地上で一番力を持っている生き物は人間以外に有り得ない。
その人間のせいで滅んだというのなら、それは生存競争に負けたということではないだろうか?
伝統的な自然だというのなら、生存競争に負けたものは滅んでいくことこそが正しい事象であるはず。なのに、彼らは人間の力で滅んでいっている生物を無理やり延命させようとしている。
そこに私は疑問と反感を感じているのだと思う。
だが、滅んでいくものとして切り捨ててそれでいいのか、と聞かれれば少し違う気がするという感触がある。
それはきっといつか自分が切り捨てられる側になる可能性があるからかもしれない。
私は、全ての生物の至上の意義は「生きること」だけにあると思っている。
地球に生まれた生物はきっと元は一つのところから生まれてきている。ただ、一つであればそれが死んでしまえば全てが終わってしまう。
だからきっと、増え続けたのだと思う。
種族を増やし、固体を増やし続けてここまで増殖したのだと思う。たとえ一つが死んでも、一つが滅んでもずっと生きていけるように。
ただ生き続ける可能性を保つために、他の命を消費しても、それは許される。
次に生物が持つ可能性を私は重要視している。
もちろん人間が一番大きい。
可能性が大きすぎるが故に、全ての生物を絶滅させる力を持つこともあるだろう。逆に全ての生物を救う力を持つこともあるだろう。
例えば、地球はそのうち太陽に飲み込まれて無くなる。
これは確定している事象である。少しくらいは違うことが起こるかもしれないがまぁ、どちらにしろ無くなる。
そのとき、私たちが認知している生物はどうなるだろうか。
もし、明日地球がなくなれば、可能性は失われてしまうだろう。
しかしそれでも、可能性は残っている。
宇宙に出ている人間がいるからだ。
地球はいずれなくなる。
それまでに私たちは宇宙へ出なければならないのだ。
猶予はあと何億年だろうか。とにかく実感することの出来ない時間である。
私が言いたい可能性はそのような、生き延びることの出来る可能性である。人間のかなり不確定なばかげた可能性の振り幅は、ギャンブルのようなものなのかもしれない。でも、そこまでしなければきっと生き延びられないのだと思う。
生物と可能性の話をしたが、私の中ではこれらは同じようなものだと思っている。
「生物が生きること」と、「可能性を保つこと」は同じようなことだとも思っている。
だから、可能性が失われることは悲しい。
人が何かを諦めている姿を見ると悲しいと思うのである。
人間はその可能性を維持していかなければならないと思っている。
それこそが人間の最たる武器であるとも思う。
おそらく最初の「切り捨てることに対する違和感」はここからくるのだろうと思う。
人間が行う直接生存とは関係ない行為はどれほどあるだろうか。
列記はしないがとにかく多い。
私はそのほぼ全てが可能性を保つために必要な行為だと思っている。あるいは人として生きるために必要な行為と言い換えてもいい。
まず、生存とは関係ない行為をしないようになればどうなるだろうか。
それは趣味を持たないだとか、感情が無いだとかそんな生半可なものではない。
まず言語など、今私たちが持っているほぼ全ての知識は失われる。必要ないからだ。さらに生きるためだけには道具を持つ必要など無い。ただ食べ物をとって食えばそれで生きていけるからだ。
しかし、それだと生きられない。
奇跡的に代を重ねることがあってもいつかは途切れる。
いつか、地球が無くなるその日には。
だから、一見生きるためには必要の無いことやものは必要なのだ。生きるために、可能性を保ち続けるために。
だから、たとえ生存競争に負けたものをあえて生かそうとすることに人間の可能性の一部が存在するのだと思う。
自分が生きるためには自分のことだけを考えてはならない。
それではいつかきっと可能性は失われる。
全ての生き物が自分の生存のみしか考えなければきっとすぐに可能性は失われる。
私たちが避けなければならないのはきっとそれなんだと思う。
ええと、長くなりすぎ。終しまい。
ぐだぐだだったけど文章に出来てよかったと思う。
誰にも言わなかったけど。
相変わらず明日無き高校生活ですが(大げさ)、それなりに楽しくやっています。
えーと、昨日試験中に思い浮かんだことをまとめておこうと思う。
一応、誕生日記念に。
現実には絶滅する生物がいる。
そしてそれを問題とする人々がいる。
彼らの言い分はおよそ「伝統的な自然を人間が壊したのだから責任をとれ」というものが多いようだが、私にはそれが理解できない。
今地上で一番力を持っている生き物は人間以外に有り得ない。
その人間のせいで滅んだというのなら、それは生存競争に負けたということではないだろうか?
伝統的な自然だというのなら、生存競争に負けたものは滅んでいくことこそが正しい事象であるはず。なのに、彼らは人間の力で滅んでいっている生物を無理やり延命させようとしている。
そこに私は疑問と反感を感じているのだと思う。
だが、滅んでいくものとして切り捨ててそれでいいのか、と聞かれれば少し違う気がするという感触がある。
それはきっといつか自分が切り捨てられる側になる可能性があるからかもしれない。
私は、全ての生物の至上の意義は「生きること」だけにあると思っている。
地球に生まれた生物はきっと元は一つのところから生まれてきている。ただ、一つであればそれが死んでしまえば全てが終わってしまう。
だからきっと、増え続けたのだと思う。
種族を増やし、固体を増やし続けてここまで増殖したのだと思う。たとえ一つが死んでも、一つが滅んでもずっと生きていけるように。
ただ生き続ける可能性を保つために、他の命を消費しても、それは許される。
次に生物が持つ可能性を私は重要視している。
もちろん人間が一番大きい。
可能性が大きすぎるが故に、全ての生物を絶滅させる力を持つこともあるだろう。逆に全ての生物を救う力を持つこともあるだろう。
例えば、地球はそのうち太陽に飲み込まれて無くなる。
これは確定している事象である。少しくらいは違うことが起こるかもしれないがまぁ、どちらにしろ無くなる。
そのとき、私たちが認知している生物はどうなるだろうか。
もし、明日地球がなくなれば、可能性は失われてしまうだろう。
しかしそれでも、可能性は残っている。
宇宙に出ている人間がいるからだ。
地球はいずれなくなる。
それまでに私たちは宇宙へ出なければならないのだ。
猶予はあと何億年だろうか。とにかく実感することの出来ない時間である。
私が言いたい可能性はそのような、生き延びることの出来る可能性である。人間のかなり不確定なばかげた可能性の振り幅は、ギャンブルのようなものなのかもしれない。でも、そこまでしなければきっと生き延びられないのだと思う。
生物と可能性の話をしたが、私の中ではこれらは同じようなものだと思っている。
「生物が生きること」と、「可能性を保つこと」は同じようなことだとも思っている。
だから、可能性が失われることは悲しい。
人が何かを諦めている姿を見ると悲しいと思うのである。
人間はその可能性を維持していかなければならないと思っている。
それこそが人間の最たる武器であるとも思う。
おそらく最初の「切り捨てることに対する違和感」はここからくるのだろうと思う。
人間が行う直接生存とは関係ない行為はどれほどあるだろうか。
列記はしないがとにかく多い。
私はそのほぼ全てが可能性を保つために必要な行為だと思っている。あるいは人として生きるために必要な行為と言い換えてもいい。
まず、生存とは関係ない行為をしないようになればどうなるだろうか。
それは趣味を持たないだとか、感情が無いだとかそんな生半可なものではない。
まず言語など、今私たちが持っているほぼ全ての知識は失われる。必要ないからだ。さらに生きるためだけには道具を持つ必要など無い。ただ食べ物をとって食えばそれで生きていけるからだ。
しかし、それだと生きられない。
奇跡的に代を重ねることがあってもいつかは途切れる。
いつか、地球が無くなるその日には。
だから、一見生きるためには必要の無いことやものは必要なのだ。生きるために、可能性を保ち続けるために。
だから、たとえ生存競争に負けたものをあえて生かそうとすることに人間の可能性の一部が存在するのだと思う。
自分が生きるためには自分のことだけを考えてはならない。
それではいつかきっと可能性は失われる。
全ての生き物が自分の生存のみしか考えなければきっとすぐに可能性は失われる。
私たちが避けなければならないのはきっとそれなんだと思う。
ええと、長くなりすぎ。終しまい。
ぐだぐだだったけど文章に出来てよかったと思う。
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